正義とJustice

白倉伸一郎さんのブログ*1で紹介されていた

田崎「 論語の《義を見てせざるは勇無きなり》の《義》、確か中国語で、足りない物を補う、という意味じゃなかったかな。義手とか義足とか」
林 「 なるほど」
田崎「 それから考えると、正義という意味は、正しい事が足りない状況に於いて、《正しさを注入して不均衡を均衡に戻す》、って事じゃないですかね?だとするとやっぱり、正義とJusticeはちょっと意味合いが違うかな、と」
日本映画監督協会「ヒーローは殺人鬼? 〜子供向け映画の犯罪〜」より 
http://www.dgj.or.jp/japanese/tokuho/hero_ha.html

に 「正義」と「Justice」の違いに思いを馳せる ここらへんは白倉さんがその著書『ヒーローと正義』で書かれていらっしゃり 私は未読なので彼の考えについては何もコメント出来ないのですが この田崎さんの言葉から アメリカ人夫を持ちアメリカに暮らすものとして この英語の「Justice」という言葉を改めて考えてみました この「Justice」は 私にとっては 天秤っぽいイメージ? というか 釣り合い とか 均衡が崩れているのを 戻す 正す? といったイメージなんですよね それに対し 「正義」は まずは絶対善有りき 田崎さんのおっしゃられる様に 正しさが足りないからそれを補う が「正義」で じゃぁその絶対善とは何かという事に思いを馳せるうちにふと思った事 それは ひょっとしてキリスト教圏では 人の間に 絶対的な善悪 というのは存在しないのかもしれないという事 つまり 善悪の判断は神がする 神のみが出来る こちらでは あなたが悪い という言い方よりも それはフェアじゃないという言い方の方をよくするんですよね つまりは 善悪の問題ではなく 人との関わりの中での均衡の話しとなる 人は人を裁かない 神のみが裁く だから 人の間にあるのは 「正義」ではなく その均衡を正す「Justice」なのかな と
大昔 義母に ライブハウスで結婚式をあげたと報告したら じゃぁ誰にこの結婚を誓ったの と不思議そうに返されて戸惑った事をふと思い出しました つまり結婚は 夫婦が誓い合うものじゃないんです 神に2人が誓うもの この感覚は私には全く無かったのでとても驚いたものでした まぁそもそも グッドモーニングはおはようじゃなく 良い朝ですね なんですよね 文化の違いというものは 思ったよりも侮れないものです